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今日は、本当は「行ったほうがいいわよ」と、言われた学習会もあったのですが、班活動が新婦人の基本だと思い、班で企画したお花見に出席しました!
前の班会で
「日頃なかなか会えない人や、お休みがちな人も気軽に参加できる企画」
と、決めていたので、フライヤーも作って新婦人新聞と一緒に読者の方にまで配り、お声がけもできるかぎりして、集まりました。
土曜日も休日出勤の方もいらしたけど、子どもも入れて12人の参加。
でもね、昨日の夜までなんとか桜はもっていたんですが、その後降った雨の影響で、花も散り、雨足も強かったので、場所は急遽公民館にとらせていただいて、おしゃべり会になりました。
家のこと、仕事のこと、ご近所のこと、学校のこと、いろんな愚痴も笑いになり、震災後の自治会の役割や、PTAの役割、若い人の興味関心と近づくためのヒントなど、いろんな話題が沢山出て、本当に元気になりました。
定年後の旦那様の生活について、心配したり不安を持つ方は少なくないですね。エンディングノートづくりなどを通して、家庭の中で命について考えるきっかけになればいいなと、ぶんじねこは思いましたよ。たてのものを横にもしない旦那様は、時に奥様を「お母さん」に仕立て上げてしまいます。もちろん個人レベルで、お互いそれでいいならいいのですが、たいていの場合
「なぜにわたしが今あなたのためにそこまで。自分でできることなのに」
ってお考えになる方は多い。
それでも奥様たちって、たまには旦那様とお花見に行きたいなどの思いはもってらっしゃるんですよね ^^ そこで
「そうよ、そういう気持ちがあるなら、綺麗なお花でも見ながら
実はね、この間こんなふうだったのは、あの言葉が悲しかったのよ
わたしだって傷つくのよ?」
って可愛く言ってみたらどう?など、周囲のほうが盛り上がってシーンを想像したり。それで頬を赤くしたりしてる方は、実際とってもかわいくて、一番身近な旦那様がそのかわいさを忘れてらっしゃるとしたら、もったいないなぁ~って思いました。
一方、家事がほとんどできずに高齢になってしまった旦那様は、日本全国にいらっしゃる。
被災地では、避難所でたったひとりの女性になってしまったため、お料理係を任命された女性が、熱でたおれたとき、それこそ旦那様でもない男の方に
「あなたがそんな体調じゃ・・・今日はカップ麺だけでいいな」
と、言われて、自分が倒れてはだめなんだというプレッシャーを感じた会員さんもいらっしゃるとか。
「でもね、わたしがもうこの歳になってそうそう変わらないように、夫もあの歳になって変わるのは難しい。それならわたしが変わるか、聞き流すか、どっちかなのよね~」
と、おっしゃる方のお顔は、とても優しくて素敵でした。
新婦人の班活動の手引きには「どんな悩みや要求も、この会にもちこみ、みんなの問題とすること」と、あります。
そういう意味で、心から共感し、話を共有できたこと、これぞ新婦人っておしゃべり会でした。
でもなー、それが晴れた桜の木の下でできたら、本当によかったのにな!
またやりましょうね!
[0回]
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http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/31/班でお花見ならぬ笑顔見 ^^
寒暖の予想がつかない毎日。体調くずされていませんか?
実はここ2~3週間の間に、わたしが何故かとってもくよくよした毎日を過ごしてしまっている時があることは、昨日のブログにも書きましたが、今日、ちょっと
「あ!もしかして・・・!?」
って、思ったことがあります。
最近、どうも顔色が冴えない方によくお会いします。
そしてその方々の様子の特徴。
○顔色が悪く、無表情
○声のトーンが暗い、もしくは平坦な話し方
○はっきりではないけど少しよろけている
○咳や喉の調子がおかしく話すのが億劫そう
そういう方に
「大丈夫?なんだか今日、お疲れじゃない?」
って、お聞きすると、ほとんどたいていの方が
「え・・・?そう?そうでもないわよ。大丈夫よ」
と、お答えになります。
ところが・・・何故かその翌日か翌々日になると、その方本人もしくは、その方と会う約束になっていた方からこんな話を聞くのです。
「そんなにたいしたことないと思ってたんだけど、今朝になると熱が出てたのよ」
そう!皆さん、上記のような症状は多分、今流行っている風邪の症状です!!
自覚症状が本当にないのか、女性ならではの、人に心配かけたら申し訳ない、迷惑になってしまうという慎み深さからくるものなのかわかりません。
ただ、わたくしぶんじねこは、そういう方々が、ちっとも話していても楽しそうではなく、お返事も空返事でいらっしゃるので・・・しかも具合がわるいわけじゃないとおっしゃるので
(あぁ・・・わたしと話したくないってお気持ちがどこかにおありなのかしら・・・
くすん・・・
やっぱり色々作業も前に仕事してらした方ほどできないし、
あきれてがっかりしてもういいやって思われてるのかもしれないな)
なんて思ったりしてたんです。本当です。それで自分に反省点があればなんとかしたいのですが、もうその方のどことなく無表情なせつなそうな様子を思い出すと、お気の毒な気持ちになって、申し訳ないやら悔しいやら・・・やっぱり自分って人をつまんない気持ちにさせちゃう存在なのかしらと、ついくよくよしてしまうのです。
今月前半はずっと、そんな気持ちが連続していた日々でした。
皆さん。
人に
「大丈夫?」
って聞かれた時は、瞬間的な自覚症状で
「え?別に平気だけど、大丈夫よ」
と、判断するのはやめましょう。
「え?・・・そうかしら??あら・・・そうなの???
ちょっと深呼吸でもしてみましょうかしら」
そのくらいのこと、
「大丈夫?」
って聞いた人はする間は答えを待ってくれますよ。だから
「大丈夫!」
と、即答せず、どうぞご自分の身体と10秒~30秒くらいは会話してみてください。
そういえば、ちょっとくらくらするとか、
そういえば、ちょっと息苦しいとか、
そういう信号を無視せず、どこが調子が悪いか、自分の身体に聞いてください。
やっぱりいつもとちょっと違うってことに、お気づきになりませんか?
そして忙しくても、よきところでなるべく早く区切りをつけたり、
寝る前にハーブのお風呂に入ったり、
ビタミンたっぷりジュースを飲むなど、少し身体をいたわってみてください。
でないとね?
何人もの人が、わたしと会話してるとつまんなそうなの!昨日まで元気に受け答えしてくれていろんな約束もしたのに、今日は実に実につまんなそうなの。
そんな連続って、かわいそうでしょう~。わたしも、あなたの身体も!
わたしは今度同じ顔色の人がいたら、わたしが発見した症状を言ってみて、自覚症状のもうちょっと深くを確かめて見るよう、再度すすめるようにしようと思います。
それでも大丈夫とおっしゃるなら
「ぶんじねこと話してるのって、そんなにつまんないの?」
って、ストレートに聞くことにします!
もうくよくよ考えるのは疲れた~~~~。
[0回]
http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/30/「大丈夫」ってほんとう?
今現在の被災地の様子を知りたくて、ブログや市町村のサイトを見て回っていたら、陸前高田市の戸羽市長が、FBでかなりストレートにご自身のお気持ちを書かれていることを発見。
詳しく拝読していたら、次のような主旨のコメントが、今日発信されていました。
スポーツメーカーに講演を頼まれている。
テーマは『チェンジ』で、震災そのものより震災のあとの気持ちの切り替えなどを中心に、一時間話すことになっている。
企業に話して役立つかわからないが・・・
人間は信じられない状況になっても、人間が元々備わっている力で乗り越えられる。
テニスの松岡修造氏が「頑張れ俺」と、自分を励ますように自分の力を信じることが大切。
そういうお話をしてこようと思う。
(原文のままではありません。ぶんじねこの解釈。)
朝拝見したのですが、思わず熱いものがこみあげてきてしまいました。
ぶんじねこは今、日々の色々の変化に自分を毎日励まして、悪戦苦闘しています。そもそもキャパが小さい人間なので、その容量は毎日いっぱいいっぱいで、しかも思ったよりしなくてはいけないことが進んでいません。
ぶんじねこ的に「ごめん、もう今日はできない ><」と思ったとき、結果的にどうしても、周囲の人に迷惑をかけてしまったり、お待たせしてしまうことが増えてしまいます。
一番まずいのは、それでだんだん
「あ~~~も~~~なにもかも無理~~~~~」
と、思って放り出してしまいたくなること。
そうならないように、自分に言い聞かせてはいますが、特にお電話で話をして、お相手の方が元気がないご様子だと、たぶん一般の方が感じるより、すごく気になってしまって、自分の調子が悪かったりすると
「怒らせてしまっただろうか?都合が悪いときに一方的に話してしまったんだろうか?それともわたしとはそもそも話したくなかったんじゃないだろうか?」
など、考えなくてもいい考えにとらわれてしまって、とってもつらくなってしまうことがあります。
何故「一般の方が感じるより」といえるかというと、元気なときのぶんじねこなら、
「どうしました?ちょっと元気がないみたいよ?」
と、お聞きすることができるから。でも自分に元気がなかったりキャパを超えたりしてると、それができなくなります。そして聞きそびれてあとからくよくよ考えてしまいます。そういう自分比で考えても、いらぬ気苦労を勝手にしていて、さらに自分が元気をなくして悪循環。
でも、戸羽さんは
「人間がもともと持っている力」
と、基本的な人間そのものを信じる言葉を、わたしたちに教えてくださっている。
わたしの、ちょっとした失敗がなんだっていうんでしょう。
へこたれない。リセットして明日からまた自分の中にたまったものは空にしていいお水を汲みなおす。そうしてちょっとずついい按配の自分の器をこしらえてゆく。
それでいいじゃないですか。だって今はそうしかできないんだもの。
昨日、常任みんなで手分けしていろんな事務作業や機関紙のまとめ作業などをしていたのですが、校正をお願いしていたおふたりが、元の原稿とプリントではなく、同じプリントを読み上げながら比較していて・・・半分くらいたってからそれに気づいて、
「そりゃ間違いないに決まってるわね。同じもの見てたら!」
って笑いのツボにはまってしばらく止まらなかった、ということがありました。
すごくささいなおかしいことなんですが、ぶんじねこはそういう笑いが大好きです。作業はいったん止まりますが(笑)ほっこりした気持ちになります。そしてそういうことに笑いながら作業できる仲間がいるっていいなぁ、って思うのです。
[0回]
http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/29/自分を信じること
これは、ぶんじねこ個人の雑感です。
===
子どもの権利条約というのを、お聞きになったことがありますか?
ユニセフ 子どもの権利条約について
●生きる権利
人種、民族、性、言語、宗教、政治的意見、出身、心身の障害などによって差別されない。
●守られる権利
子どもの最善の利益が第一義的に考慮される。
●育つ権利
子どもの生命、生存、発達の権利を保障するために、保健、栄養、水と衛生、教育などの基礎的な社会サービスが確保される。
●参加する権利
子どもの意見には、子どもの年齢および成熟度に応じてそれにふさわしい考慮が払われる。
について、国連で決められた条約です。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効しました。
この条約に参加している国は、この権利条約の内容を国として守ってゆくと同時に、国民にこの内容の理解を広める努力をすることになっています。そして国連に報告義務もあり、内容が守られているかの審査を受けます。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf
同報告審査後の同委員会の最終見解(仮訳)(2010年6月)(PDF)PDF
外務省ホームページ
この条約を受けて、国分寺市では、子どもの権利と未来を守ろう条例をつくろうと市議会で審議されています。
国分寺市ホームページ
子どもの権利と未来をつくる条例案
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/350000/s351500/kosodate002.pdf
その内容についてここでは触れませんが、こういった権利の問題を考える時、必ず問題になるのが
「権利ばかり主張する機会を子どもに与えてどうするのか」
という反論です。
権利の主張=わがままであるような考え方が、日本には根強くあるように感じています。
本来の権利とは、一時的な感情的なわがままではなく、「生きる」を根底にした問題で、生きる自由を阻害しない。学ぶ自由を阻害しない。など、人が本来もつ本質的なものを「権利」という言葉に集約しているはずです。
いじめや虐待を受けずに成長する権利。学びたい学校に通う権利。休息をとる権利。遊ぶ時間をもつ権利。家族の愛情を受ける権利。戦争に巻き込まれない権利。
しかし、日常生活の中では、子どもの声は「わがまま」として片付けられることが多くあります。
「抱っこして」
「もっとお話して」
「今は勉強したくない」
「片付けなんてつらいだけ」
「大人は好き勝手に過ごしてるのに子どもにはやらなきゃいけないことが多いよね」
そういうとき、大人はたいてい
「文句言わない。やることやってから文句言いなさい」
と、やっつけてしまいます。
それは躾として大切なアドバイスである反面、子どもが本来もっている自由を侵害する可能性がある場合もあります。「自由を侵害している可能性があることをふまえて、おおらかに対応する」ことを、育児書などでは
「時に子どもの声を聞いて、受け止める」
というような表現をしています。
「そうすることで子どもは安心して、信頼された喜びに愛情を実感します」
というような。
そしてそういう表現のほうが、日本人としてはほっとするし、安心して腑に落ちる傾向はあるでしょう。
けれど、単にノウハウにはめ込んでいいのか、とも思うのです。ノウハウはひとつひとつの局面では必要ではありますが、流行りの形があったり大人の都合で形を変えたりする場合があります。ノウハウを検証するとき、子ども本来がもつ権利をふまえて適切か検証したうえで実践することも大切なのではないでしょうか。
実際、いくら子どもが保護者から安らぎを受けて育つ権利があるといっても、四六時中べったらこんこんに甘えられては親もたまったものではありません。用事もあるし、体力の限界もあります。できるだけ願いに応えてあげるにしろ、今は待っていてね、ということをわかってもらう必要がある局面はいくらでもあるでしょう。
子どもは愛情を受けて育つ権利があると同時に、社会の中で生きていけるおとなへと進む教育を受ける権利もあります。躾けというのは教育の一貫であるともいえるでしょう。
何故今は我慢してほしいのか、何故今は待って欲しいのか、保護者が、必要性やこれを優先してすすめたい思いを子どもに適切に伝えたうえで、今は待つという選択肢があることを、伝え、選ばせるのが役割ということになるのではないでしょうか。そういうことの積み重ねで、保護者と子の中で権利を尊重しあう人間関係を築いて行けるひとつになるのではないでしょうか。
ただし、子どもが自由にできる時間をもたせる環境づくりは、保護者個人で作るには限界があります。やはり社会(国、都道府県、市町村)全体の責任である要素も大きいと思います。親子で行動するときに託児施設がどこにでもある、気軽に預けられる場所(人)がある、困ったとき相談にのってくれる場所(人)がある。そういう環境が整備されていなければ、子どもに「今は待つという選択肢で納得してもらう」にも、やっぱり我慢を強いる場合の割合のほうがどうしても多くなってしまうから。
うまく伝わるかわかりませんが、わたしは権利=わがままということについて、最近こんなふうに考えています。
権利を貫くというと四角四面にしゃちほこばって、他を受け付けないぶつかり合いを連想する方も多いと思いますが、本来は、権利というのはいくつもの選択肢の中から何かを選ぶ権利の保証(つまり社会の中で自由が保証されていること。同時に責任もともなうこと)までのことをさすのであって、権利=わがままだから主張すべきでないという説は、権利のほんの一部分を見て、「自由を抑圧する予防線」的考え方にすぎないのではないかと。
個人的には、星野市政が保育園の民営化を、子育て新システムの先取りともいえる強引さですすめていることについて、おおいに不満があります。
一方で、子どもの権利条約を受け、市として何らかの形にしようとしている姿勢については評価できると考えています。内容については今まで有識者で検討されたり、子どもたちに対して虐待やいじめの実態調査を行うなど努力をされているとは思いますが、今一歩「権利」というものについて踏み込んで・・・
それこそ安易な保育園や学童保育所の民間委託など許せなくなるような(たとえば収入の差によって教育や保育に差が出ることは、差別に該当します)、子ども本来の生そのものや保育、教育にまっすぐ目を向けた内容を期待したいです。それができないなら、絵に書いたもちのような条例には疑問しか残りません。厳しく言わせていただけるなら「自分はこんなに子どものことを考えている」というアリバイ作りに使われるのは、たまったものではありません。
子どもの権利と子どもの権利条約に沿った内容であるかを客観的に評価することも国連NGOの新婦人だからできる取り組みではないかと、色々調べていて感じました。
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http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/28/子どもの権利条約と、市の取り組みについて
かぶんブログに、アメリカのロック歌手、シンディーローパーさんのインタビューの全文が掲載されています。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/112997.html
シンディが歌うテーマのひとつに、ジェンダーの問題があることを知りました。
わたしが感じるのは、日本人は男も女もジェンダーの問題を語り合うのが苦手だなってこと。
現状として、今は男性が女性を蔑視する、という状況はずいぶん減ってきたと思います。しかし皆無かというとそうではない。けれど男性は
「女性だってそういう甘えられる地位におおいに甘えて生きているじゃない」
と、いう人もいます。
ではどういうことが甘えなのか。
主には「そんなに必死で働かなくてもそれは男に任せておけばいい」という考え方です。しかし現実は、必死で働くという選択肢がない、もしくは、子どもがいるなど家庭環境的条件の中で、男性女性どちらが働くとなったとき、女性のほうが家での仕事がどうしても多くなる側面もあります。
世界的に見ると、実は日本の女性と男性の賃金格差は異常に大きいです。また、出世する率も男性のほうが高く、正社員正職員の比率も男性のほうが圧倒的に多い。同じ仕事をしても、男性のほうが収入が多いなら、女性が家をメインにして仕事は男性に任せる・・・そういう流れが「話し合いもないまま、当然のように」決まっていく。
それは差別ではなく役割分担だという人もいます。
けれど選択の自由があるなしでいうなら、やはり女性にはそれが少ないと感じます。これがとても、問題なのです。
女性が文句を言ったり権利を主張したりしなければ、けんかにもならず、家庭も会社も円満だという人もいます。けれどそれは本当に円満なのでしょうか。男性だけが円満だと思っていて、女性は「わたしが我慢してるから」という言葉を飲み込んでいるだけのことではないでしょうか。
日本に目立った男尊女卑思想がなくなった反面、女性自身にとってもしている我慢や選択肢のなさについて問題が見えにくくなり、女性にとって社会が停滞期に陥っている現状というのはあるのではないでしょうか。
・・・とはいえ、雇用の不安定で男性だから安泰というのでもなくなりました。
働いていてもワーキング・プアという言葉さえあり、その条件の厳しさは男性だからないというのんきな時代でもありません。
シンディは、女性たちをどう歌うのか、改めて聞いてみたくなりました。
新婦人では、来年度は改めてジェンダーの問題について学習会を開いたり、アクションをおこしていったりしたいと聞いています。わたしも今、自分の生き方を考えるうえで、この問題はさけて通れないと感じるようになっていて、タイムリーだと思っています。
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http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/27/ジェンダーについて思うこと