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子どもの権利条約と、市の取り組みについて 育児&教育 2012年03月20日 これは、ぶんじねこ個人の雑感です。===子どもの権利条約というのを、お聞きになったことがありますか?ユニセフ 子どもの権利条約について●生きる権利 人種、民族、性、言語、宗教、政治的意見、出身、心身の障害などによって差別されない。●守られる権利 子どもの最善の利益が第一義的に考慮される。●育つ権利 子どもの生命、生存、発達の権利を保障するために、保健、栄養、水と衛生、教育などの基礎的な社会サービスが確保される。●参加する権利 子どもの意見には、子どもの年齢および成熟度に応じてそれにふさわしい考慮が払われる。について、国連で決められた条約です。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効しました。この条約に参加している国は、この権利条約の内容を国として守ってゆくと同時に、国民にこの内容の理解を広める努力をすることになっています。そして国連に報告義務もあり、内容が守られているかの審査を受けます。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf同報告審査後の同委員会の最終見解(仮訳)(2010年6月)(PDF)PDF外務省ホームページこの条約を受けて、国分寺市では、子どもの権利と未来を守ろう条例をつくろうと市議会で審議されています。国分寺市ホームページ子どもの権利と未来をつくる条例案http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/350000/s351500/kosodate002.pdfその内容についてここでは触れませんが、こういった権利の問題を考える時、必ず問題になるのが「権利ばかり主張する機会を子どもに与えてどうするのか」という反論です。権利の主張=わがままであるような考え方が、日本には根強くあるように感じています。本来の権利とは、一時的な感情的なわがままではなく、「生きる」を根底にした問題で、生きる自由を阻害しない。学ぶ自由を阻害しない。など、人が本来もつ本質的なものを「権利」という言葉に集約しているはずです。いじめや虐待を受けずに成長する権利。学びたい学校に通う権利。休息をとる権利。遊ぶ時間をもつ権利。家族の愛情を受ける権利。戦争に巻き込まれない権利。しかし、日常生活の中では、子どもの声は「わがまま」として片付けられることが多くあります。「抱っこして」「もっとお話して」「今は勉強したくない」「片付けなんてつらいだけ」「大人は好き勝手に過ごしてるのに子どもにはやらなきゃいけないことが多いよね」そういうとき、大人はたいてい「文句言わない。やることやってから文句言いなさい」と、やっつけてしまいます。それは躾として大切なアドバイスである反面、子どもが本来もっている自由を侵害する可能性がある場合もあります。「自由を侵害している可能性があることをふまえて、おおらかに対応する」ことを、育児書などでは「時に子どもの声を聞いて、受け止める」というような表現をしています。「そうすることで子どもは安心して、信頼された喜びに愛情を実感します」というような。そしてそういう表現のほうが、日本人としてはほっとするし、安心して腑に落ちる傾向はあるでしょう。けれど、単にノウハウにはめ込んでいいのか、とも思うのです。ノウハウはひとつひとつの局面では必要ではありますが、流行りの形があったり大人の都合で形を変えたりする場合があります。ノウハウを検証するとき、子ども本来がもつ権利をふまえて適切か検証したうえで実践することも大切なのではないでしょうか。実際、いくら子どもが保護者から安らぎを受けて育つ権利があるといっても、四六時中べったらこんこんに甘えられては親もたまったものではありません。用事もあるし、体力の限界もあります。できるだけ願いに応えてあげるにしろ、今は待っていてね、ということをわかってもらう必要がある局面はいくらでもあるでしょう。子どもは愛情を受けて育つ権利があると同時に、社会の中で生きていけるおとなへと進む教育を受ける権利もあります。躾けというのは教育の一貫であるともいえるでしょう。何故今は我慢してほしいのか、何故今は待って欲しいのか、保護者が、必要性やこれを優先してすすめたい思いを子どもに適切に伝えたうえで、今は待つという選択肢があることを、伝え、選ばせるのが役割ということになるのではないでしょうか。そういうことの積み重ねで、保護者と子の中で権利を尊重しあう人間関係を築いて行けるひとつになるのではないでしょうか。ただし、子どもが自由にできる時間をもたせる環境づくりは、保護者個人で作るには限界があります。やはり社会(国、都道府県、市町村)全体の責任である要素も大きいと思います。親子で行動するときに託児施設がどこにでもある、気軽に預けられる場所(人)がある、困ったとき相談にのってくれる場所(人)がある。そういう環境が整備されていなければ、子どもに「今は待つという選択肢で納得してもらう」にも、やっぱり我慢を強いる場合の割合のほうがどうしても多くなってしまうから。うまく伝わるかわかりませんが、わたしは権利=わがままということについて、最近こんなふうに考えています。権利を貫くというと四角四面にしゃちほこばって、他を受け付けないぶつかり合いを連想する方も多いと思いますが、本来は、権利というのはいくつもの選択肢の中から何かを選ぶ権利の保証(つまり社会の中で自由が保証されていること。同時に責任もともなうこと)までのことをさすのであって、権利=わがままだから主張すべきでないという説は、権利のほんの一部分を見て、「自由を抑圧する予防線」的考え方にすぎないのではないかと。個人的には、星野市政が保育園の民営化を、子育て新システムの先取りともいえる強引さですすめていることについて、おおいに不満があります。一方で、子どもの権利条約を受け、市として何らかの形にしようとしている姿勢については評価できると考えています。内容については今まで有識者で検討されたり、子どもたちに対して虐待やいじめの実態調査を行うなど努力をされているとは思いますが、今一歩「権利」というものについて踏み込んで・・・それこそ安易な保育園や学童保育所の民間委託など許せなくなるような(たとえば収入の差によって教育や保育に差が出ることは、差別に該当します)、子ども本来の生そのものや保育、教育にまっすぐ目を向けた内容を期待したいです。それができないなら、絵に書いたもちのような条例には疑問しか残りません。厳しく言わせていただけるなら「自分はこんなに子どものことを考えている」というアリバイ作りに使われるのは、たまったものではありません。子どもの権利と子どもの権利条約に沿った内容であるかを客観的に評価することも国連NGOの新婦人だからできる取り組みではないかと、色々調べていて感じました。 [0回]PR http://shinfujinbunji.ria10.com/Entry/28/子どもの権利条約と、市の取り組みについて